2024年3月20日水曜日

つらかったら逃げろ



 昨日、学校でいじめにあって自殺した子について、学校側

の責任を問う裁判などのニュースが三つも有った。

 学校や行政の対応が問われていて、確かにもう少しできる

ことはあるだろうけど、そういうこと以前に、親や学校が

「つらいことがあったら逃げていい。学校が嫌なら無理して

行かなくていい」となんで言ってあげないのか? すべての子

供に、月に一度そう言葉をかけてから学校というものに送り

出すようにしてあげればいいのに。たかが学校じゃないか。


 こういう言い方は、いじめにあった子の親を非難している

ようだが、私は親の責任は大きいと思っている。

 「子供は学校へ行くもの」という社会の常識を疑わず、

「子供はこうあるべき」という基準に流され、我が子の逃げ

場所を用意してあげていなかったのではないのか?

 個々の事情は分からない。私の指摘が当てはまらないケー

スももちろんあるだろう。けれども、この国ではいまだに硬

直した教育観が子供に大きな圧力を掛けていることは否めな

いだろう(外国より遅れていると言いたいのではない)。


 つらかったら逃げなさい。

 つらかったら逃げればいいのだ。「逃げて来なさい」と言

ってあげればいいのだ。それがなかなかできないのは、社会

から狂った道徳観のようなものを刷り込まれてしまっている

からだ。

 たかが学校ではないか。

 そこが苦しいのなら、その場所、その状況は何かが間違っ

て、ゆがんだ形でエネルギーが滞留しているのだ。そんなと

ころからはすぐに逃げればいいのだ。

 「いつでも逃げて帰って来なさい」

 そう言ってあげろよ。


 子供だけの話ではない。大人だって、つらかったら逃げれ

ばいいのだ。たかが仕事。たかが友達。たかが恋人。たかが

家庭ではないか。

 そうは言っても、自分で働いて暮らしを成り立たせている

のなら、「逃げる」ことで生活の基盤を失うことになりかね

ないし、家庭から逃げることも大きな厄介ごとを生み出しそ

うだ。一筋縄ではいかない。けれども、わたしたちは「つら

かったら逃げる」ということを原則にすべきなんだ。


 「我慢だ」「努力だ」「辛抱だ」「強くなれ」「負ける

な」「逃げるな」・・・。うるさいよ・・・。

 そういう言葉は、本当に人の為に発せられているのか?

 そういう言葉が人の為になるのであれば、その言葉に従っ

ても苦しいのはおかしいんじゃないのか?

 人の為ではなくて、社会の為に、社会に人を組み込むため

に偽装されている言葉ではないのか?


 自分もそう言われてきたから、子供や他の人にもそう言

う。自分がそういう言葉に従って、つらい想いをしてきたこ

とを憶えているはずなのに、自分の感覚よりも、アタマに刷

り込まれた価値観に従う。

 「変だと思いなさいよ」、私はそう思う。


 人は社会を持たなければ生きてゆけない。わたしたちは社

会を作り、維持してゆかなければならない。けれども、それ

は社会の道具として組み込まれることを意味しない。理想論

ではあるけれども、「わたしたちは共同して、自分たちにと

って良い道具としての社会を作らなければならない」という

のは、真っ当なことだろう。

 社会はわたしたちの道具であるべきなのに、実際にはわた

したちは社会の道具になっている面の方が大きい。


 「つらかったら逃げていい」

 誰もがそういう風にしていたら社会が成り立たないかもし

れないが、大半の人が逃げてしまうような社会なら、その社

会はそもそも出来が悪いのだ。だから「つらかったら逃げて

いい」という原則は、良い社会を作る上での指標になる。


 大きな社会のことまでは知らない。そこまで考えるのは誇

大妄想だろう。だけど、学校・職場・家庭・その他の人間関

係、そういう身の丈の社会を「つらかったら逃げていい」と

いう原則で見るのなら、そこには少し余裕が生まれるはず

だ。「たかが〇〇じゃないか」というゆとりが持てるはず

だ。具体的に逃げることができない状況だとしても、「おか

しいのは “ここ” であって、自分じゃない」と考えられる。自

分を非難せずにいられる。

 ただし、一つ気をつけなければならないのは、「おかしい

のはアイツだ」と誰か非難すること。それは自分がその場所

のエネルギーを歪めてしまうことになる。おかしくすること

に加担してしまう。
 

 社会の歪んだエネルギーによって、その場が歪んでいるた

めに、そこにいる人たちも歪んで立っている。それに気付か

ずに・・。けれど、そこで歪ませられずに、真っすぐ立つ人

がいると、それを見て周りが「自分が歪んで立っている」こ

とに気付き始める。それがその場の状況を変えてゆく。


 逃げられないのなら、心の中で逃げる。

 社会とは無関係の、心の空間からその場を見る。

 「ああ、おかしなことやってるな」と。

 けれど、どうしてもダメなら実際に逃げればいいのだ。そ

こにいて命が削られるような思いなら、逃げた方がいいに決

まってる。それでどうなるかわからないけれど、すくなくと

もそこは自分の居場所ではない。


 逃げないで頑張って、それで何が得られるか?

 わずかばかりの金か社会からの賛辞だろうけど、それがい

ったい何だというのか?

 割に合わないことはやめた方がいい。

 子供は特にそうだ。

 子供に逃げ場を与えてあげたいけれど、あいにく私にはそ

ういう才覚がない。ご縁がない。こんなネットの辺境で、ブ

ツブツとひとりごとを言うだけだ。けれど、このひとりごと

が巡り巡ってどこかで誰かを救うかもしれない。その可能性

が無いとは言えない。


 つらかったら逃げろ!




 

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