2024年3月13日水曜日

「反戦」という戦い



 ほとんどの戦争は、(あらゆる意味での)資源とそれが有

る領土を求めて行われるものだけれど、その本質は「否定」

と「対立」ということだろう。一方からの「否定」を受け

て、もう一方からも逆に「否定」が立ち上がり、「対立」が

生まれる。戦争に限らず、すべての争いは「否定」と「対

立」なのだが、人が否定することをやめられれば争いは無く

なる。しかし、人は否定することがやめられない。


 今日のテーマは「反戦」で、それは「戦争の否定」という

ことなので、「反戦」することは違う戦いを生み出すという

可能性を持つ。それは小さな戦いかもしれないが、人間のエ

ゴはそれをねじれさせ、拡大させ、新たな戦争へと進ませる

だけの愚かさを充分備えている。


 そう考えてみて、「解戦」というような言葉が頭に浮かん

だ。そういう日本語はないけど、「戦いを無効化する」とい

うような意味合いです。

 「否定」「対立」「戦い」を無効化するすべはないのか?

 その鍵は「人は否定することがやめられない」というとこ

ろに有りそうだ。


 自分が「否定する」こと。

 自分が「否定される」こと。

 そのどちらをも解消する方法があるような気がする。


 他者を「否定」するのは、自分が「安定」したいから。

 自分が「否定」されて不安になるのは、「安定」がぐらつ

くから。

 ならば、誰もがぐらつくことのない「安定」を手にすれ

ば、他者を否定することはなくなり、自分が否定されて不安

になることもないので、対立は生まれないだろう。しかし、

そんな「安定」があるのだろうか?


 ある。

 ただし、それは社会の中にも自分の中にも無い。

 そもそも、「安定」というものは社会と自分の外にしかな

い。
 

 社会の中から争いをなくそうとしてもムダだ。それは不可

能だ。社会は安定することがない。エゴとエゴとのせめぎあ

いで常に揺れている。ただ、個人がその争いに飲み込まれな

いでいることはできる。たとえ社会的な立場や物理的な意味

で争いの中に居たとしても、そこで「安定」を望まなければ

いいのだ。どうせそこには「安定」はないのだから。

 「安定」を望まなければ、原理的に「不安」は消える。状

況を評価する意識も消える。そして、ただ状況に身を任せ

る・・・。

 その態度は個人の意識を社会(人間関係)の外に立たせ、

本当の「安定」をもたらすことになる。そうなれば争いの只

中に居ながら、争いに巻き込まれていない。


 そのようにして、争いの中に居ながら不安を持っていない

人がそこに居るとき、周りの人は「否定」することの意味を

喪失し始める。

 「否定」し、争うことによって相手が不安定になってくれ

ることで、相対的に自分が「安定している」と錯覚できるは

ずなのに、相手が超然としていたのでは自分が「安定してい

る」と感じられない。むしろ、自分の方の不安定さが露わに

なってきて、争うこと、否定することを続けるのが辛くなっ

てしまう。エゴとエゴのせめぎあいは破綻する。


 戦いに反対したり抵抗しても、戦いは消えない。戦いを本

当に消す可能性があるのは、戦いを傍観し、問題視しないこ

とだけだろう。それは個人レベルでは間違いなく有効だ。け

れど、戦争のように大きな戦いに効果を上げるには、数万

人、数十万人規模の傍観者を必要とする・・・。ほとんど不

可能だろう。けれど「反戦」という戦い(活動)の方には、

その可能性はゼロだ。違うだろうか?




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