2024年3月4日月曜日

自惚れられない ~信仰の神髄~



  この前、日本人がやたらと「お辞儀」をすることについて

考えていて、日本人にとっての「神」と、キリスト教などの

一神教の「神」の違いに気が付いた。


 日本では、教えも無く、姿も無い、なんだか分からない

「神」に対してとにかく頭を下げる。日本人にとって「神」

は上にいるもの。なんだかわからないけれど、日本人は「自

分より上の存在がある」という意識を根底に持つので、それ

を「神」とし、頭を下げ、へりくだる。そのため「自分が一

番」などという発想は持ちにくい。他宗派・他宗教について

も、同じように「神」より下の存在だと感じるので、同じ立

場の者として折り合いがつけられる。「自分が正しい」とい

う自己主張もしにくい。


 それに対してキリスト教などの「神」は、教えを与え、使

命を与えるもので、信仰者の後ろにいる。彼らは「神」とい

う後ろ盾がいることで、堂々と「自分たちは正しい!」と主

張することができる(もちろん、自分たちに都合がいいよう

に「神の教え」を解釈したうえでですが)。その一方、相手

に譲ろうとして退こうとすれば、後ろには「神」が立ちふさ

がっているので退くに退けない。なので、争うことになる。

なにせ、彼らは “神の代弁者” なのである。お互いが “代弁

者” なのに、意見が違って争ったりするのが不思議なところ

ではあるが・・・。

(余談ながら、欧米の過激な主張をするポリコレやビーガン

やエコロジストなんかは、キリスト教の新しい宗派とでも考

えていいのかもしれない)


 日本の「神」というものは、「思い上がって自惚れちゃい

けないよ。自分の立場をわきまえて、そのうえで “良く生き

よう” としなさい」と伝えているのだろう(と思うが)。

 冷静に考えれば、自分に惚れることなんてできるはずがな

い。こんなに不完全なのになんで自分に惚れられる?


 「自分」という出来損ないに自惚れていては、ロクなこと

にならないと感じるのは自然なことだ。ところが日本人であ

るわたしたちもすぐに自惚れる。エゴは自分が大好きで、自

分が出来損ないであることを酷く恐れるからだが、残念なが

ら、その恐れを払うところまで「神」はサービスしてはくれ

ない。


 一神教の信者は「神」の教えを都合よく歪曲して、自惚れ

るために「神」を後ろ盾にする者が多いように感じる。けれ

ど一神教の信者でも、自分の不完全さをごまかせなくなれ

ば、振り返って「神」の前にひざまずき、本気で赦しと教え

を乞うだろう。その時、本当に「神」と対峙することにな

る。


 「神」に対峙する時は、頭を下げ、頭を空っぽにして、命

乞いさえあきらめて、その身を投げ出す。

 信仰の神髄とはそういうことだろう。


 主は うつろな容器を見いだしたもうとき

 そこに祝福を入れたまう
                    ヒルティ


 ヒルティはスイスの哲学者で敬虔なキリスト教徒でもあ

る。彼は「神」と対峙し、「神」の祝福を受けたのだろう。


 私は「神」というものが存在するのかどうかは知らない。

 ただ、自分が、自らの意志で、自らの力で生まれてきて、

自らの力で生きていると思うことなどできない。それをさせ

ている何らかの力があるとしか思えない。それを「神」と呼

んでもいいし「仏」と言ってもいい。他のどのような言葉で

呼んでもいいけれど、そこにわずかばかりでも自惚れのため

の意識が混ざっているのなら、それは「神」でも「仏」でも

ない。


 ヒルティに異議を唱えるのではないが、自惚れを捨て、う

つろな容器になったとき、そこに「主」が「祝福」を入れる

のではないだろう。「祝福」が「主」そのものであり、「祝

福」は常に私たちの中に満ちている。単に、自惚れが邪魔で

「祝福」に気付けないだけなのだ。


 

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