2019年4月12日金曜日

「生きること」の味わいを・・・



 今日、ふと考えた。「このブログは何だろう?」。

 そして思った。「生きることの “味わい” なり、“醍醐味” 

なりを表現しようとしているのだろうな」と。


 人生には意味は無い。

 人生には価値は無い。
 

 私は本気でそう思っています。


 人間の約束事としての「意味」なり「価値」なりは有りま

すが、それはあくまでも人間の約束事としてのものでしかあ

りません。生きることに「意味」は無い。ましてや社会的な

意味合いでの「価値」などというものは “お約束” でしかな

い。その時その時、その場その場でだけ「意味」や「価値」

を持つものでしかない。便宜的なものです。


 こんなことを言っていると、気をつけないとすぐにニヒリ

ズムに落ち込んでしまう。「人生は無意味だ・・・」と思っ

て自殺したりする・・・。

 けれども、そのギリギリのところを通らなければ・・、あ

る意味、ニヒリズムを通過しなければ、生きることが「便宜

的なお約束」のままで一生が終ってしまうだろう。それは

「生きそこねる」ことだと、私は思っている。


 わたしたちは、この世に生まれて来た時は「意味」など知

らない。何に対しても「価値」など感じない。ただただ母親

のおっぱいを求めるだけ。意味も無く、価値も無く、ただ生

きる衝動に突き動かされている。それがわたしたちの始ま

り・・、本質・・。

 生きることに「意味」も「価値」も無く、ただむき出しの

「生」がある。そしてその「生」がわたしたちの “本当” な

のは、その成り立ちから考えて間違いではない。


 人は、人生を「意味」や「価値」で形作ろうと生きるので

はなく、「意味」や「価値」などの前から存在している、こ

の “命” を生きる為に生まれて来るのだろうなと思う。

 母親のおっぱいを求めるように、「生」を味わうことが、

わたしたちがすべきことなんだろう。
 

 《人生はグリコのオマケのようなもの》(『グリコのおま

け』2017/3)

 やっぱりそうだと、改めて思う。


 オマケで遊ぶのは構わない。楽しめるのならそれでいい。

けれども、それはやっぱり暇潰しなんだ。やはり「オマケ」

なんだ。子供だましなんだ。

 ほとんどの人間が、何も考えない赤ん坊に生まれて、浅知

恵の付いた子供になって、そのまま年を取ってしまう、「オ

マケ」に目を奪われた子供のままで・・・。人は大人になる

べきではないだろうか?
 

 大人のしていることって、単に「オマケ」の手が込んでい

るだけのことでしかない。

 「生き甲斐だ!」「ビジネスだ!」「社会貢献だ!」など

と言うけれど、“子供の遊び”を都合の良いようにカモフラー

ジュしているだけでしかない(それが100%とまでは言わな

いけれど)。大人になんかなっていない。


 わたしたちは母親のおっぱいの味を忘れてしまい、それと

ともに「生」の味わいも忘れてしまう。けれど「生」を味わ

ってこそ、人は本当に成長して大人になるのだろう。

 “大人” とは、「生」の味わいを知っている人間ではない

だろうか。


 じゃぁ、“「生」の味わい” とは何か?


 言葉で説明できることではありませんね。

 それこそ味わってみるしかない。


 「意味」だとか「価値」だとかの調味料を足すのをいった

ん止めて、そのものを味わう・・・。一切の「意味」や「価

値」が無くても存在している、この「生」をそのまま味わ

う・・・・。

 その “味わうこと” が生きることの醍醐味(価値)だろう

し、その “味わい” こそが生きるしあわせ(意味)だろう。

それは、約束事の「意味」や「価値」ではない。


 そんな “醍醐味” や “味わい” を表現しようとしているの

が、このブログらしい・・・。


 身の程知らずもいいところだけれど、いつものように《人

間に自由意志は無い》。

 ただ私は、止むに止まれず、動かされるままに動いて、こ

のブログを書いているだけ。私の知った事ではない。

 でもね、「生」は味わうものですよ。私の実感としてね。





   
 

2019年4月7日日曜日

仲良く出来ないのでしょうか?



 気温がグングン上がって、我が家の花たちもみるみる成長

している。本当に植物はすごいなぁ。

 今年の神戸のソメイヨシノは他所に比べて開花が遅い。ま

だせいぜい六分咲きというところで、ヤマザクラの方が早く

咲いている。どういう具合なんだろうかと思うけれど、知る

由もない。


 日本人は何百年も前から桜を好んで来たけれど、江戸時代

にソメイヨシノが生まれてから今まで、公共の場所から個人

の庭まで全国のあらゆる所に植えられて、日本の歴史上、現

代は最も桜の多い時代だろうと思う。

 ソメイヨシノは確かに綺麗だが、オオシマザクラやオオヤ

マザクラなども綺麗なので、もっと植えられてもいいんじゃ

ないだろうかと思う。


 昨日も今日も、近所の公園にサクラを見に出かけた。

 たくさんの花見客が来ていたが、にぎやかでなごやかで平

和なものだ。いつも、あんなふうにくつろいで仲良くしてれ

ばいいのにと思うのだけど、仕事なんかになると、競争し合

って、比べ合って、牽制し合って、ギスギス、ギクシャクと

「どちらが正しい」とか「どちらが悪い」とか張り合

う・・・。そんな大層な事じゃないのになぁ。仲良くすりゃ

あ良いのになぁ・・・。


 ホント、仲良く出来ないんだろうか。

 「自分の方が正しい」

 「自分の方が優れている」

 「自分が損をする」

 などということが、いさかいの原因のほぼ全てだと思うけ

れど、そんなことが、いがみ合って苦しい思いをする理由だ

なんて馬鹿げていないだろうか?


 「損をする」というのが、食っていくのにも苦労するほど

の「損」ならば、それはいさかいになってもしようがない部

分もあるだろうが、それだって、そもそも仲が良ければそん

な「損」をさせられる状況も起らないんじゃないか? そう

いう状況が生まれるのも「自分の方が正しい」とか「自分の

方が優れている」という思いが、相手を否定する態度になる

からだろう。


 いったい「自分の方が正しい」だとか「自分の方が優れて

いる」ってことが、どれほど大事な事だというのか?

 正しかったらそれがどうだというのだ。

 優れていたらそれががどうだというのだ。


 「自分は正しい!」

 「うん。それで?」


 「自分は優れている!」

 「うん。だから?」


 正しかろうが優れていようが、それが他者を否定して自己

満足する為のものならば、そんなものこの世のゴミです。

 正しかろうが優れていようが、それで死後に天国なんかに

行けるわけでもない。人と人との間に(あるいは他の生き物

との間に)対立を作り出して、地獄を作っているだけなら、

この世のガンです。


 程度の差こそあれ、誰もが自分の正しさ・優位さを確保し

ようと必死ですが、そんなことより、人間は社会を必要とす

る生き物なんだから、仲良く出来る方が生き易いはずなんで

す。どう考えたって。

 人は「生き易さ」より、「正しさ」や「優位さ」を選ぶん

ですね。バカですね。そんなもの何にもならないのに。けれ

ど、社会はこぞって「正しさ」や「優位さ」を賞賛する。


 『手術は成功した。患者は死んだ』という、医者のジョー

クがありますが、それと似た様なものですね。大事なことは

どっちなの?


 アタマは悪さをする。

 それがこのブログのテーマですが、アタマは、「存在しな

い “自分の存在意義” 」を手に入れようと必死です。その為

に自分の「正しさ」「優位さ」に何よりもこだわります。そ

の為に自分が生きるのが苦しくなろうが、他者を苦しめよう

が平気です。時にはその為に自分の命を落とすことさえ厭わ

ない・・・。ホントにバカです。アタマは、悪いです。
 

 仲良く出来ないのでしょうか?

 人と、今の自分自身と・・・。


 あたたかい春風の中で、ひらひらと舞う花びらの下で、ニ

コニコと笑い合う事が出来ているのなら、他のどんな場所だ

ってそうすることは出来るはずだと思うんだけどね。

 「自分の方が正しい」

 「自分の方が優れている」

 そんなどうでもいいことを大事だと錯覚するのさえ止めら

れればね・・・。 出来るはずです・・・。




2019年4月4日木曜日

引きこもって当たり前じゃない?



 この前から、NHKが中高年(40歳以上)の “引きこも

り” を何度か取り上げている。「中高年の “引きこもり” 」

が61万人ということで、若者よりも多くなっているそうだ

(両者を合わせると100万人以上)。その中には、中年以降

に “引きこもり” になった人もあれば、若い時から引きこも

り続けている人もある。なぜそうなるかといえば、単純な話

で、社会がせせこましくなっただけのことなのだろうと、私

は思っている。私だってできれば引きこもりたい。嫌だも

の、今の日本の社会と付き合うのは。


 これまでも何度か書いて来たけれど、今の社会は人間の為

に有るのではなくて、経済の為にある。そして、社会の構成

要素でしかないわれわれ人間は、当然ながら経済を存続させ

る為の道具でしかない。


 〔 経済 >社会 >人間 〕というのが現在の世の中の図式

です。そんな中に放り込まれる人間の中には、「何よりも

効率が求められる」という状況に耐えられないセンシティブ

な人や、その「効率」について行けない人たちが沢山いる。

そういった人たちが、“引きこもり” になり、“鬱病” にな

り、“パニック障害” になったりする。

 そうなって当たり前でしょう。どちらかといえば、そんな

世の中に合わせられる方が、人間として変だと思いますね。


 コンピューターとロボットが普通に仕事に組み込まれ、こ

れからは AI が仕事をするようになる。そのことは、もうす

でに、社会が求めているものが一般的な人間の能力を越えた

ものになっているということですよ。経済の要求レベルが、

もう人間では間に合わなくなっている。だから、 もうすで

に言外に社会から疎外されている人間は、引きこもったりす

るしかない。そうなって当然です。


 「それは、引きこもったりする人間の、適応力が低いから

だ」と言われれば、その通りでしょう。適応出来ていないん

です。しかし、そんな社会に適応することは人としての望む

べき姿でしょうか?

 もはや世の中は〔 経済 >社会 > 機械 >人間 〕です。適

応出来なくて当たり前です。適応出来たところで、機械のパ

ーツです。喜んでる場合でしょうか?


 このブログは Google の 〈Blogger〉の中にあるわけで

すが、その Google を運営している人々は、果たして 

Google を動かしているのでしょうか?

 インターネットに代表される、社会と機械のシステムに取

り込まれ、経済を動かしているのではなく、経済に動かされ

ているだけでしかないんじゃないだろうか? いや、そうだ

としか思えない。確かに凄いことをやっているけれど、彼ら

も所詮「パーツ」でしかない(タダで使わせてもらっていて

何ですが・・・)。考え過ぎだと思いますか?


 GAFA の経営者たちが、気が狂っているとしか思えない額

の資産を持っていますが、それが何なんでしょう? そんな

もの、なんで持つのでしょう? 

 嬉しいのでしょうか? 

 幸福だとでも言うのでしょうか? 

 生きる上では、どう考えてもほとんど(ほとんどの桁が凄

いけど)ムダでしかないでしょう? 経済の見せる妄想に憑

りつかれ、動かされているんですよ。

 彼らよりも、引きこもって、不安にさいなまれながらも

日々を生きている人の方が、人としてはしあわせかもしれな

い。少なくとも、「パーツ」になることからは免れている。

苦しいけれど、人である。まだ、ハートが生きている。


 二千年前でも、三千年前でも、社会というものは問題を抱

えていたでしょう。わたしたち人間の〈アタマ〉が寄り集ま

って出来ているのだからそうならざるを得ない。しかし、時

代が進んで、社会の狂い方はもう来るところまで来てしまっ

ているようです。


 人間と人間で社会を作っている間は、そこから疎外される

者の数は少なかったでしょう。所詮人間レベルの中ですから

ね。ところが、人間の上位に機械を持ち込んでしまったが為

に(省力化にロボットを導入して人を減らすって、そういう

ことでしょ)、普通の人までもが社会からはじかれてしまっ

た。物理的にも、心理的にも。それが現代でしょう。


 引きこもったり、鬱になったり、パニック障害になった

り、何かの依存症になったり、そういった人たちは、「まと

も」なんだと思いますよ。人として。

 こんなに「効率、効率!」と言って、「生き残り競争」を

して、「準備された楽しみ」と「教えられた喜び」にだけ目

を向けている社会では、適応出来ない方がしあわせなんじゃ

ないでしょうか? もちろん、それなりの苦しさは有るでし

ょうし、深く心を病んでしまって、抜き差しならない状況に

ある人もいるでしょう。そういう人に「何か」を言えるかと

いうと・・・、私は相応しい言葉を持ち合わせていません

が・・・。


 でも、そういう人がたまたまこれを読むことがあったら言

いたい。

 いずれにせよ、あなたは生きている。生きているというこ

とでは、社会で上手にやっている人たちと等価だ(等価なん

ですよ。そう思いにくいかもしれないけど)。

 社会に適応する為に必死にやっている人と、社会に適応出

来なくて一人で「何とか生きよう」ともがいている人と、ど

っちも必死なのは同じです。どっちも苦しんでるんです。顔

には出さなくてもね。

 それなら、社会(経済)のパーツになっているより、人と

して苦しんでいる方がマシかもしれない。経済にバカされ

て、自分じゃない「何か」として動いているよりは、止まっ

ている(動けない)方がよさそうです。



 しあわせになるのに、理由は要らない。

 動けなくて、ひとりで悶々としている自分が、いま生きて

いる・・・。自分をふりかえる時間ならたっぷりある。

 「自分はしあわせかもしれない・・・」そういう前提で自

分の今を見つめて、感じて欲しいと思う。


 「他人事だからそんな気楽な事が言えるんだ」と思われる

かも知れないけれど、それでもいいから、ちょっと自分を振

り返って欲しい。世の中の方に問題が有るのかもしれない

と、自分と世の中を見つめ直して欲しい。



 生きてると、どうせ苦しい。やせ我慢でも強がりでも負け

惜しみでもいい。「いま、生きている」という価値を味わっ

て欲しい。ひとまず、先のことや他人のことは忘れてね。



2019年3月31日日曜日

ああ、疲れる・・・。



 日々暮らしていて、毎日のように〈縁〉という事を考え

る。

 「日々暮らしていて、毎日のように〈縁〉という事を考え

る」と、今、書いたのも〈縁〉である。



 人は、事あるごとに「良縁」だとか「悪縁」だとか言うけ

れど、その人が「良縁だ」と思う事や、「悪縁だ」と思った

りすることも、その思う事までもが〈縁〉です。



 本当の「良縁」というものに恵まれた人は、不運であって

も「悪縁」だと思わないし、幸運であっても「良縁」だとも

思わない。どの様な〈縁〉のはたらきも、「それが自分だ」

として受け取って行く。善悪の比較はさておき生きて行く。

 本当の「良縁」とは、“〈縁〉によって自分を見失わない

態度” を持たされていることなんだと思う。



 さらに、「そのような態度」を持つまでに至らなくて

も、“「そのような態度」を持たされることが「良縁」だ” 

と認識していられることも「良縁」だと思う。

 さらに言えば・・・・・・。

 と、「悪縁」を追い込んで行こうとしかけたのだけれど、

面倒くさいので止めよう。


 ( “自分は「悪縁」に会っている” だとか、“「良縁」か

「悪縁」かなど考える余裕すら無い”とかいうのも、そう思

ったりする自分が存在しているのだから「良縁」だ 。とい

うところまで持って行こうとしたのですが、「ちょっとクド

イかな」と)



 「是非・善悪」を考え始めると際限がありません。

 宇宙が生まれて、やがて消えるとしても、そのことには

「是非」も「善悪」もありません。ありようがない。そのよ

うなものは存在しない。
 
 けれど人は、そこに「是非・善悪」を持ち出してしまう。

人の〈業〉として・・(その〈業〉は「悪縁」かもしれませ

んけどね)。


 「是非・善悪」は人間の恣意性によるものです。それはわ

たしたちのアタマの中にしかない。けれど、わたしたちはも

う長い間、「是非・善悪」があることを前提に社会を動かし

て来た。そうせざるを得なかったのですね。

 わたしたちの先達は、その中で大変な苦労をしてきたわけ

ですが、もういい加減にしても良さそうだと思うのですが、

どうでしょう?


 釈迦や老子・荘子・ソクラテスなどは、もう二千年以上前

に「人は本来、是非・善悪より大きな存在である〈世界〉と

ひとつである」ということを示したのに、いまだに、わたし

たちは懲りもせずに、アタマに惑わされて無意味な事をし続

けている。

 二千年ですよ・・。それこそ「悪縁」と言うべきでしょう

か?


 ハッキリ言って、私はもう、生きているのが面倒くさいん

です。

 人間と関わるのが面倒でしょうがない。

 何も私が「高潔で優れた人間だ」などと言うつもりはあり

ません。単に世の中を見て思うのです。「仲良く出来ないの

か?」と。


 どんな些細な事にでも「是非・善悪」を持ち出して、比べ

合い、馬鹿にし合い、貶め合い、殺し合う・・・。嗚呼、メ

ンドクサイ!



 人には、生命には、“生きようとする衝動” というものが

有って、それが為に私は生きていますが、自分も含めた人間

の〈アタマの悪さ〉には、本当に疲れます。


 神社なんかに行って、「どうか、良縁に恵まれますよう

に・・・」などと祈る・・・。

 自分の方が、出会った人に対して「良縁で在ろう」なんて

ことは思いもしない。

 自分が、“出会った人に対して「良縁で在ろう」” とする

ことが出来るなら、それは自分にとっても相手にとっても

「良縁」でしょう?(『素敵にめぐり会おう !』2017/12 

ということも以前書きました)
 

 どのような境遇であるにせよ。自分が自分であること

が、最良の「縁」なんですよ。

 だって、みんな自分を生きるしかないんだから。それを

「悪縁」だなんて言ったってしょうがないし、自分が自分を

「悪縁」だと見做すのは、自分に対する冒涜ですよ。

 このエゴの渦巻く人の世の中で、せめて自分が自分を肯定

してあげなくてどうします? わたしたちは、「悪縁」に惑

わされちゃいけない・・・。

 自分を肯定できないから、人と比べるし、自分を肯定する

為に、人を否定する・・・。

 もう、「タネ明し」は二千年前に済んでるはずなんですけ

どね・・・。


 なぜ今回、私が〈縁〉について書き出したのかは知らな

い。そういう〈縁〉なのでしょう。それに、これが世の中に

何かの〈縁〉で繋がるのかどうかも知りませんし、それが

「良縁」になるのかどうかとなれば、さらに知りません。


 いろいろと矛盾したことも書きましたが、〈縁〉の中で

〈縁〉を語るのですから、矛盾せざるを得ません。ただ、そ

の矛盾さえもが何処かの誰かの「良縁」になることを願うだ

けです。

 私とあなたが「良縁」に恵まれますように・・・・。








 

2019年3月30日土曜日

魂に罪は無い



 「魂に罪は無い」と、前回書いた。

 ここで言う「魂」とは、精神だとか心だとかとは少し違

う。

 精神や心としてわたしたちが自覚する “はたらき” が、顕

れる “場” として「魂」という言葉を使っています。「無限

定の意識」というか、「比較以前の存在としての、命」とで

もいうようなものですね。

 そのような、 “区別、価値判断が存在し得ない「命」の在

り方” には、罪は犯せない。何の不足も欲求も持っていなく

て、ただ存在することだけで充足している。人間の是非・善

悪の価値判断のまだ奥にある。

 是非・善悪の価値判断の外側に、無限に拡がっているも

の・・。


 孫悟空がどこまで行っても、 “お釈迦さまの手のひら” の

上だったように、是非・善悪の区別・価値判断に右往左往し

ているわたしたちの思考は、自分が価値ある者だと自惚れて

いる孫悟空のようなものでしょう。 “自分という価値” の外

側に、《限定しようの無い世界》がある。それは誰でも感得

することができるはずのものですが、「思考」という “比較

するはたらき” がそれを邪魔している。


 わたしたち人間の五感というものは、世界の中の「差」を

捉える為にあります。人間だけに限らず、すべての生物が、

世界の中の「差」を捉えることで生きています。

 目は、光の明暗の差や色という周波数の差を捉え、鼻や舌

は物質のもたらす刺激の差を捉え、耳は空気などの振動の周

波数・圧力の差を、皮膚は温度・湿度・圧力の差を捉える。

そうやって、生命は周りの環境を把握してそれに対応しよう

としています。


 生物の持っている、その「差」を捉えるはたらきは、わた

したち人間が「思考」を持った時、当然の事として「思考」

に組み込まれた。そして、単に物理的な「差」を捉えるだけ

にとどまらず、「思考」が自ら生み出す(想定する)約束事

の世界の中で、ありとあらゆるところに「差」を捉えてしま

うようになり、かえって生きることが大事(おおごと)にな

ってしまったんですね。


 「思考」に悪気は無いんですね。ただ、生きる為に「差」

を捉えようとしているだけです。

 だって生命は「思考」を持つ前から、「差」を捉えること

で生きて来たのですから、それが自らの「思考」の世界の中

であっても、「差」を見ずにはいられません。

 けれど、「思考」の中の「差」は実際の世界の中には無く

て、自分たちの「思考」の中にしかないものですから、結果

的に実際の世界との間に齟齬を生みます。

 わたしたちは「思考」の中で、自ら生み出した「差」を捉

え、その「差」に右往左往し、他者に対しても自身に対して

も「罪」を作る。

 いったい何をやっているんでしょう。まったく “骨折り損

のくたびれ儲け” 。


 今朝も、テレビで「空飛ぶバイク」の話題を取り上げてい

たけれど、「思考」の世界でジタバタ・ノタノタと動き回っ

ている姿は、孫悟空にも失笑されそうです。

 人がやる「正しいこと」や「良いこと」も、「思考」の世

界の中での恣意的な価値判断で一人相撲をしているようなも

のです。「思考」の世界の外には、 “お釈迦さまの手のひ

ら” に例えられるように、安楽な世界が拡がっているのに

ね。

 (「オマエは見たのか?」と言われそうですが、時々「チ

ラっ」と見ます。・・・あなたにも見られます。・・・なん

て言って、宗教の勧誘をしようというんじゃないですよ)



 「魂には罪は無い」というか、「魂の世界には、罪は存在

しようが無い」。


 「あれは良い。これは悪い」と四六時中 “是非・善悪” の

価値判断をしているわたしたちの「思考」は、自分たちのま

わりに「罪」を設定する為にエネルギーの半分以上を使って

いるようです。不愉快で、くたびれて当たり前ですね。


 人間のやることは、ほとんどすべて「マッチポンプ」で

す。ああ、疲れる・・・。




2019年3月28日木曜日

みんなが「裁判官」というアホな世界



 「生きることは苦である」とお釈迦さまは言った。

 なぜわたしたちは、苦しむために生まれて来なければなら

ないのだろうと思う。子供の虐待のニュースなどを見る時は

なおさらそう思う。

 その一方で、このごろの私は、そのような事件に対して

も、ものが言えなくなってきた。評価、判断が出来ない。

 虐待する方も、虐待される方も、どちらも不幸だとしか思

えないから。


 そりゃぁね、虐待される子供の方が可哀相で心配ですよ。

殺されてしまう事もあるし、そうでなくても、それから先の

その子の人生を思えば言葉も無い。けれど、だからといって

虐待する側を完全に「悪」と見做すことはできない。これま

でに何度か書いているけれど、犯罪者になるつもりで生まれ

て来る人間はいないだろうから。誰もそんな運命望まない。

けれど、そうなってしまう。


 罪を犯した人間の “罪” は罰さなくてはならないだろう。

けれど、その全人格を罰することはできない。人が罪を犯す

のは、その不完全さ、弱さゆえだから。

 自分のことを考えてみても、私が罪を犯していないのは、

私の人格が優れているからではなくて、今のところ罪を犯さ

ない境遇にあるというだけのことだ。だから、私には人を裁

く資格が無い。明日は我が身かもしれないのだから。


 ネット上では、毎日誰かが批判され、裁かれているけれ

ど、そんなことは大昔からの人間の日常だ。伝達・拡散のス

ピードが上がって、その質も変化しているけれど、その本質

は同じだろう。他者を裁き、貶めることで、相対的に自分の

立場を上げたり、自分の正当性を信じ込んだりしたいのだ。

けれど、いったい誰が人を裁くことができるだろう。誰も、

何も裁けないはずだ。誰も、誰かを裁く根拠なんて持ってい

ない。単に「わたしは気に入らない」という気分に、正当に

思えるような理由を付けるだけだ。

 罪を犯すのが「弱さ」ゆえならば、裁くということも「弱

さ」ゆえだろう。「裁く」という行為の根底にあるのは、不

安や怖れなのだから。もちろん、それぞれの「弱さ」が向い

ている方向は違うが・・・。


 これまでも度々書いて来たけれど、社会の中で罪を犯した

者は、それが法に触れるかどうかに限らずその責めを負わな

ければならないが、本当の意味での責任は、その当人には無

いと私は考えている。だって、人には自由意志は無く、ただ

止むに止まれずそのように行動しているだけだから。


 間違いなく罪を犯している被告に対して、私が裁判官な

ら、どんな場合も次のような判決を下す。


 「被告は “有罪” (それが相当であれば死刑)。ただし、

その魂は “無罪” 。」


 仮に、自分の大切な人が殺されても、私はそう判決するだ

ろう。(ホントかな?)

 だって、そうするしかないのだから。


 それがどんな人間であれ、魂に罪は無い。魂に罪は犯せな

い。罪を犯すのは、わたしたちのエゴ、あるいは無知だ。

 社会の関わりの中からエゴは生まれ、社会との関わりの中

でエゴは育つ。そのようなエゴの中には、「反社会的」とい

う社会との関わり方をするものも現れて来る。社会は差別に

よって動いて行くものだから、その当然の帰結として・・。


 「反社会的な人間」は社会から排除される。

 けれど実際には、 “社会から排除されたから”   あるい

は、社会に上手く適応できないから  「反社会的な人間」

になる場合も多いだろう。その場合は、社会が犯罪者を生ん

でいる事になる。実のところ、割合としてはそちらの方が多

いだろうと思う。「本質的に反社会的な人間」は、それこそ

〈反社会的人格障害〉のように、脳機能に問題を持っている

者に限られるだろうから。

 “社会から排除された人間” であれ、“本質的に反社会的な

人間” であれ、それは当人のせいではない。そのような人間

の〈罪〉は裁けても、その人間そのものを裁くことはできな

い。少なくとも、私はその資格も正当性も持ち合わせていな

い。


 とはいうものの、私もすぐに裁きたがる。

 うっかりしていると、すぐに人を裁いている。油断も隙も

ない。

 人を裁くことで、その反作用としての、束の間の “自己肯

定感” を得ようとするのだ。どうせ後味の悪い思いをするの

に・・・


 人を裁くと、その “裁き” の正当性を保持しようと、「自

分は正しかった、正しかった・・・・」と、いつまでも自分

に言い訳をしていなければならなくなる。それは、恐ろしく

くたびれる事だし、精神衛生上よろしくない。

 寄って立つ法律でもあれば、それによって「自分は正し

い」ということで納められるけれど、「自分は正しい」が自

分の判断である場合は、そこに確固たる正当性を得られるこ

とはない。「自分は正しい」という考えを放棄しない限り、

永久に「自分は正しい」に縛られる事になる。

 個人的に人を裁くと、裁いた人間の方が ”「自分は正し

い」という牢獄” に入る事になる。

 人を裁いたりするもんじゃない。


 ちょっと「違法薬物をやった」とか、「不倫した」とか、

「バカなことを言った」とか、そんなことで、 “罪” を裁く

のではなく、誰もが “人” を裁く・・・。

 「ふぅ~ん。あんたたちはよっぽど素晴らしい人間なんだ

ね」と、私はひとりでイヤミを言う。


 私は、人間という “出来損ない” の存在なので、とてもじ

ゃないが人を裁けない。

 (出来損ないなので)ついうっかり人を裁いたりすると、

後で自分にうんざりしてしまう。『天に向かって唾をする』

という状態になる。イヤになる・・・。


 「裁く」というのは、〈アタマの悪さ〉の典型的なものだ

ね。ひととき気分がイイけれど、その副作用の方がはるかに

強い・・・。ヘロインより人を不幸にするんじゃないだろう

か・・・。(こんなことを言うと、裁かれるんだよね。断っ

ておきますが、私は向精神薬否定派です。かぜ薬だって飲ま

ないんですから・・・)

 今日は、お終い。




2019年3月24日日曜日

生(なま)の春を感じる


 我が家のユキヤナギは満開を

過ぎた。今年は少し早いね。

 あの無数の花が、まさしく

「咲きこぼれる」姿には毎年感

嘆する。この世には凄いものが

いっぱいある。


 「凄いものがいっぱいある」ので

はなくて、「すべてが凄い」のだ

が、日常の中ではそれに慣れてしまって、なかなか意識でき

ない。ボケてしまう。



 私にとって、花や木を見たり触れたりすることは、ボケた

あたまをクリアにするための行為だろう。そうしてクリアに

なったあたまは、他のものもクリアに見られるようになる。

人為というフィルターが弱まって。


 わたしたちは、「思考ボケ」「観念ボケ」とでも言うよう

な状態で日々を生きている。感動するのだって、「思考」

「観念」の枠組みの中でというのが大半を占めている。感動

する事は良いことのように思われるが、「思考」「観念」の

枠組みの中では決して良いこととは言い切れない。ヒトラー

の演説に人々が感動して “何” が起こったか?


 感動するのなら、「思考」「観念」に隠されて見えなくな

っているものに気付かされるということがイイ。「生(な

ま)の世界」を見てしまうことが・・。

 人は「生の世界」を見てしまうと、言葉を失う。当然だ。

それは言葉以前に存在している世界だから。言葉の出る幕は

無い。

 そして人は、「言葉以前の世界」を「言葉以前の意識」で

感じる。さらに運が良ければ、「言葉以前の意識」で理解す

る。わけも分からず「了解」してしまう。

 「・・・そうか・・・。」と。


 なにも春には限らないのだけれど、他の季節に比べて、春

はそのような「了解」のチャンスがふんだんにあるように思

う。もっとも、自然に目を向けなければ、春も何もあったも

のではないけれど。


 なぜ、この花は赤い?

 なぜ、この草は光をめざす?

 なぜ、この木はこの木でありえる?


 “そう” だから、“そう” なのだ。

 「思考」が黙るしかない “存在そのもの” が、そこに在

る・・。春には、 “やられる” 。


 ユキヤナギの純白。

 純白の花と言えば、ハクモクレンやカラーも思い浮かぶ。

けれど、それぞれに純白でありながら、少しずつ違う。純白

の中にさえ違いがある。それぞれの存在がそれぞれの違いを

持っている。そしてその違いを、人は見てとることが出来

る。見てしまう。

 凄いことだと私は思う。何がどう凄いかと伝えようが無い

し、伝えようとする事が無粋だとも思う。


 人が言葉で理解しようとすることは仕方がない。

 けれど、言葉で理解することで、多くのものを失っている

事は間違いないだろう。

 世界の “事” の、せめて三分の一でも、言葉にお休みして

もらって「了解」しようとするならば、人はずっとしあわせ

になるだろうね。世の中だって、かなり安らげる所になるだ

ろう。


 来週には桜が咲き誇るだろう。

 そして、百花繚乱の季節を迎え、新緑が萌える。

 春は命のエネルギーがあふれ出す。


 嬉しい。

 春です。