2017年10月20日金曜日

雑草の立場


 今日、公園で足元の草を見ていて思ったんですが、「雑草

魂」とか言う人が時々いますね。

 「踏まれても、切られても、負けずにまた伸びて来る雑草

の強さに学ぶ」なんて。


 確かに、雑草は「踏まれても、切られても」また伸びて来

ますが、引き抜かれたり、根ごとひっくり返されたりしたら

枯れてしまいます。「踏まれても、切られてもまた伸びて来

る」のは、特別に強いからではなくて、その場所の環境に合

っているからです。仮に、優しく植えられて大切に面倒を見

て貰えても、環境が合っていなければ枯れてしまいます。


 「また、ひねくれたことを言い出したね」

 と、思われるでしょうが、私は植物が好きなものですか

ら、「雑草」という言葉を安易に使われるのが気に入らない

いんです。


 あなたの家のまわりで、アスファルトの隙間や街路樹の根

元や公園の芝生の中に生えている草にも、名前が付けられて

います。

 エノコログサ・ヒメムカシヨモギ・アメリカフウロ・ヒメ

ウズ・コニシキソウ・イヌタデ・ツタバウンラン・マツバウ

ンラン・ブタナ・フラサバソウ・トゲジシャ・・・・・・。

 何百種類もあるのですが、ほとんどの人は興味も無く、目

も呉れません。そんな物に興味を持つ事など、想像も出来な

いのでしょう。


 昭和天皇は「雑草という草はありません」と仰ったそうで

すが、自然科学者らしい言葉ですね。生命に優劣や用・不用

の区別を付けない。雑草という草はありません。

 「雑草」という考えは、食用や観賞用の植物に価値を置い

た時に、自動的に発生します。つまり、「役立たず」という

ことです。


 で、「雑草魂」という言葉ですが、「役に立たない様だけ

ど、くじけずに何度も何度も立ち上がって来る強さを持て

ば、大きな花を咲かす事が出来る。実を付ける事が出来る」

ということなんでしょうが、こういうことを言う人がイメー

ジしている「雑草」は、大抵小さな花しか咲かせませんし、

実を付けてもまず役に立ちません。


 揚げ足取りみたいですが、まるで「雑草がバラの花を咲か

せる」様な、「雑草がメロンを実らせる」みたいな、そんな

意味付けが不快なんです。

 バラが咲いたのなら元々バラだったんだし、メロンが実っ

たのなら元々メロンだったんでしょ? こういう人は、エノ

コログサ  ネコジャラシって言われるやつです  が、エ

ノコログサの花を咲かせて、エノコログサの実を付けても、

「なんだ?」と思うだけの様な気がするし、それこそ見向き

もしないでしょう。


 人の世の中も、エノコログサの様に、アメリカフウロの

様に、生まれてから死ぬまで全然目立たない沢山の人によっ

て、形作られている。

 「それでも花なの?」と思われてしまう様な花を、一途に

咲かせている人もいる。誰もが、自分の命を精一杯生きてい

る。どんな花を咲かせるか? どんな実を付けるか? そんな

事では無い。


 「雑草魂」という言葉に、こんないちゃもんを付けるのは

ちょっとやり過ぎかも知れない。けれど、「雑草」を引っこ

抜く様な力や考えが、人の世の中にはある。一人の人間を

「用・不用」で判断する目がある。「役に立つか、役に立た

ないか」で、一つの人格まで否定しようとする働きがある。

 「雑草魂」という言葉には、使う人の思いとは裏腹に、そ

んな “悪気の無い、無意識の差別” が潜んでいる気がする。


 エノコログサがエノコログサの花を咲かす。

 それで当然。それで完全。

 バラがバラの花を咲かす。

 それで当然。それが完全。

 どこかの誰かが、「キレイ」と言おうが「地味だねぇ」と

言おうが、エノコログサにもバラにも関係ない。

 エノコログサはエノコログサの命。

 バラはバラの命。


 キレイな花は「キレイ」。そう感じるのは自然だし、花壇

や畑に、不要な草が生えて来るのも困る。人の暮らしの中に

そういう思いがあるのも、間違いじゃない。でも、それは絶

対の事では無い。物事の一面だという気付きが、どんな時に

もあって欲しい。


 「雑草」は、強いから何度でも伸びて来るのではない。

 そこが、自分の生きられる場所だから、ただただ生き続け

ているだけだ。

 「雑草だから」と何も考えずに引っこ抜く・・。その機械

的反応は、人に対しても向けられるものだと思う。


 「雑草」は、自分を与えられて、自分の分を生き、自分の

すべきことをする。とにかく、生きてゆく。

 その過程で、人が見てもすぐには気付かない様な、何かの

務めをきっと果たしている筈だ。


 バラは美しい。

 エノコログサだって美しい。

 とらわれた見方をしなければ、それぞれが、ただひたすら

生きている姿に出会える。








2017年10月19日木曜日

【吾唯足知】「満足」の使い方 





    【吾唯足知】


 この言葉をご存じでしょう


か?


 右の様に書くのですが、


 京都の龍安寺の “つくばい” に彫られているの

が、有名です。「吾れ、唯、足るを知る」と読ん

で、「少欲知足」を促す言葉と考えてよいわけですが、《足

りない物は「満足」だけ》のわたしたちには、必須のたしな

みだと思いますね。


 《足りない物は「満足」だけ》というのは、先日ブログを


書いている流れの中で、自然に出て来た言葉ですが、我なが

ら「すごいの出ちゃったな。」と後で思いました。

 だいぶ前に、唐招提寺の千手観音について書いた時、「す

べて与えてある」という話を書きましたが、わたしたちには

「すべて与えてある」のだから、足りないとしたら「満足」

だけという事になりますね。「いや~ぁ、後世に残る言葉か

も知れないなぁ」などと思ってしまいます。
 

 それはともかく、「すべて与えてある」なんて、とても承

服出来る話じゃないですよね。「あれも、これも足りない

よ」と思ってしまいます。

 確かに「もう少しお金があったら」とか、「良い仕事があ

ったら」とか、「持病が治ったら」とか思います。考えるほ

どに「足りない」です。ですが、その「足りない」は、ある

状況を想定しての話です。その様な状況が訪れる時が来るか

も知れませんが、さしあたりの今は、今の状況です。今在る

ものがすべてです。満足だろうが、不満足だろうが、今在る

ことがすべてです。無いものは無い。

 ですが、「無い」ことは「足りない」ことではありません

ね。“自分が望むもの” が無いだけで、“今あるもの” はすべ

てあります。気に入ろうが、気に喰わなかろうが、その様に

なってます。だったら、拗ねたり、怒ったり、悲しんだりし

てネガティブモードになるだけ損です。


 「すべて与えられています」

 社会の教える価値観や、生物としての本能的な欲求を持っ

て比較することを辞めれば・・。


 と、口で言うほど簡単な事ではありませんが、そうしなけ

ればほんとうの「満足」は得られません。

 今に「満足」し、その「満足」に立って、次の今を迎え、

次の今に「満足」する・・。そうやって続いて行く。

 それがいつまで続くのかなんて分かりません。

 あっさり終わってしまうかも知れません(死ぬという事で

すが)。でも、「満足」の中で死ねる事になりますね。


 「足るを知る」というのは、途方もない智慧ですね。

 それは、わたしたち人間が本来持っているもので、「アタ

マ」のおしゃべりの奥で、いつでも、黙って存在しているも

のなんですね。

 
 なんて、イイカッコ言ってますが、この頃、私自身が「足

りない・・」と泣きそうな日々が続いているので、このブロ

グに書くことで、必死になって自分に言い聞かせているので

す。“言うは易し、行うは難し” 。
 
 でも “行うは難し” の、この私自身が、与えられたもので

すから、その “自分” にも「満足」してしまえばいいわけで

すね。

 「不満」でも「満足」して、「満足」できることに「満

足」して、今を修めて行ければ幸せです。

 難しくて簡単。簡単だけど難しい。

 ふらふらしながら、それでも生きてみるだけです。


 社会的に “失敗” するかも知れません。

 人間的に “敗北” するかも知れません。

 それは、確かに “失敗” や “敗北” なのでしょう。 けれ

ど、あくまでも「社会的」「人間的」な見方からすればの話

です。 

 50歳ぐらいで事故や病気で死んだら、それは “敗北” でし

ょうか? 古いアパートの一室で、誰にも気づかれずに死ん

だら、それは “失敗” でしょうか?

 「そんなの嫌だ!」と思う人からすれば “失敗” でしょ

う。

 「それは負け犬だ!」と思う人からすれば “敗北” でしょ

う。

 そう思いたい人が、「そう思う」だけです。

 そう思ってる人が、一人淋しく死んで行くかも知れませ

ん。


 「“失敗” も “敗北” も無い」と決めれば、その人には “失

敗” も “敗北” も存在しません。世の中の言い分を鵜呑みに

して、自分の人生に “成功” や “勝利” を設定するから、“失

敗” や “敗北” が生まれるのです。そして、“失敗” も “敗

北” も尽きることはありませんから、わたしたちは傷付き続

けるしかありません。

 「今 ある そのまま」が「今 ある すべて」ですか

ら、そのままに受け止めて、今を「満足」しなければ、落ち

着ける時は来ません。(自分に対して、暴力が振るわれる時

は別ですよ)


 泣きながらでも、怯えながらでも、呆れながらでも、

 「吾れ、唯、足るを知る」

 それが、人を “あるべき自分” に落ち着かせる。


 そう、ヨーロッパのことわざにも、こんなのがありまし

た。

 《 満足こそ賢者の石である

   それにふれるすべてのものを 黄金に変えるから 》

 これを言い換えれば、「賢者は満足することを知ってい

る」ということになりますね。

 あなたにも私にも、その「賢者の智慧」は与えられている

はずです。


 《 「満足」を自分に用いて、「満足」に安らごう 》


 今日はここまで。




2017年10月18日水曜日

「アタマが悪い」的、辞書


 前回書いた様に、今日は “言葉の修正” を。



 早速、始めましょう。

    (=の後は、私が修正した意味です)

 「恋愛」=「恋」と「愛」を一緒にしてはいけません。

 「恋」 =性欲にもとずく人間関係で、強い執着と独占欲

      を伴い、自分中心のものの見方が顕著になる。

      対象者との間で、性欲と執着の利害が合致した

      場合は、あたかも利他的な心情を持っている様

      に見えることがある。

 「愛」 =執着と打算を伴わずに、友好関係を築こうとす

      る心理状態で、人間関係を築く上で最も望まれ

      る心情である。「恋」から「愛」に移行する事

      もあるが、非常に稀である。(本来は仏教の

      「渇愛」のことであり、執着を表わす言葉で

      あるが、現代の社会通念に則して、執着の意味

      を除いた)

 「理解」=物事の成り立ちの因果関係を把握すること。

      「共感」と混同されて使われることが多く、注

      意が必要である。  例・「ヒトラーの考えを

      理解する」などと発言すると、「ヒトラーの考

      えに共感する」と歪曲して捉えられる事が多

      い。

 「暴力」=物理的または心理的に、対象となるものを損な

      う行為。  言葉・態度も含む。    

      一見、暴力と捉えられる行為が、コミュニケー

      ションとして成立する場合があり、該当する行

      為の対象者が実際に損なわれているかについて

      慎重に確認することが求められる。逆に教育、

      指導、躾けの名目で、暴力が振るわれる事も多

      く、注意を要する。

 「友人」=肉親以外で、価値観・センスなどの親和性が高

      く、関わりの深い人。生きてゆく上での、有力

      な協力者と成ることが多いが、唯の知人を友人

      と誤解する人が高い確率で存在する。

      人生を歩むにおいて「必ず必要な存在」、と考

      える人は多いが、「不要」とする人も一定数存

      在する様である。本質的には不要と思われる。

 「結婚」=法律上の制度。あるいは似た形態で個人間の約

      束による人間関係。社会の基本単位とされる。

      幸福な生活をする為の基盤とされるが、実際に

      は人間形成の為の修行スタイルの一つ。

      「修行」との認識を持たないまま関係を持ち、

      その厳しさに挫折、破綻して後遺症に悩まされ

      る者が多くを占める。

 「離婚」=法律上で「結婚」を解消する事。

      「結婚」の条件として、“双方の合意が前提” 

      とされているにも拘らず、一方が “結婚の合

      意” を破棄しても成立しないとされる、不合理

      な法制度  「結婚制度」の問題点を隠蔽する

      為の対策と見られる。

 「教育」=子供あるいは、その集団で技能・知識などが未

      熟な者に対して行われる指導のこと。能力の向

      上と制御を目的とするが、多くの場合、所属す

      る集団の価値感・取り決めを刷り込むことに主

      眼が置かれる。さまざまな社会問題をもたらす

      主原因となっているが、有効な対策が取られな

      いまま、数千年間行われ続けている。

 「仕事」=人・物の在り方。非常に狭い意味で、“賃金を

      得る為の労働” だが、こちらの意味しか無いと

      して誤用されることが多い。

 「家族」=社会の基盤となり、一般的に血縁に基づいた人

      の集団。2~8人程度で構成されることが普通

      であるが、まれに数十人に及ぶ場合がある。

      生活の為に協力し合う関係であるが、内部に問

      題が生じると、関係の解消が困難な為に、最も

      大きな生活の障害となる。

 「常識」=その集団の中で共有されるべき考え・情報。

      「共有されるべき」との前提に拘らず、誰もが

      他者に対して平均以上の周知度・習熟度を期待

      する為に、「常識が無い人間」の方が多数とな

      る宿命にある。

 「金」 =人または集団の “社会貢献度” に対して付与さ

      れる権利を、数量化したもの。ほとんどの社会

      においては、本来の意味が薄れ、“社会習熟度”

      “社会活用力” の高い者が、“社会貢献度” 以上

      の権利を得るようになる傾向が顕著となる。

      永く、幸福度の指標とも見做されて来たが、説

      得力に欠ける部分が有り、異論も多い。

 「宗教」=人が幸福を目的として採用する信条のうちで、

      人より高次元の存在に従って幸福を得ようとす

      る考えで、論理的整合性による担保を必要とし

      ないもの。さまざまな主義、経済・科学など、

      宗教とは区別される信条も、その根拠を突き詰

      めると論理的整合性を欠く為、広い意味での

      「宗教」と言える。

      (論理的整合性による担保を必要としないが故

      に、時に反社会的な思想を露わにして、問題を

      起こす集団が出て来るが、これらは「集狂(し

      ゅうきょう)」と呼ばれる) 

 「仏教」=三大宗教の一つとされる。無数に存在する宗教

      のうちにあって、徹底的に論理性を追求する特

      異な宗教。論理的追及を限界まで推し進めるこ

      とで、論理の及ばない事象によって世界が担保

      されている事を確認し、その中にある人の存在

      も同時に担保されている事を感得しようとする

      テキストおよびメソッド。

      その特異性から、宗教に属さないのではないか

      という議論がある。

 「平和」=人を不安にさせるものが存在しない状態。

      人は、物事を比較する習性が強い為、社会的に

      完全な「平和」は、人類史上存在した事が無い

      が、個人の中にはごく短い期間断片的に存在し

      うる。また極めて稀ではあるが、数年から数十

      年にわたって個人の中に「平和」が存在し続け

      るケースが有るとされる。「完全な平和」は、

      社会的には幻想である。


 キリが無いので、今回はこの辺で辞めておきましょう。今

のところ、私はこういう考え方で納得しています。

 物事は自分が納得出来ていれば、それで事足りるのであっ

て、間違っていたら、そのうち自分が困るだけの話です。

 一つか二つ、“ニヤッ” と笑えてもらえたなら、とっても

嬉しいのですが。




      


2017年10月16日月曜日

偉い人が、偉い


 “エラそうな人” は誰でも嫌いですね。

 何故かというと「偉くない」からですね。

 「偉い」のなら、「エラそうにする」必要はありません。

だって、すでに「偉い」んだから。


 すでに「偉い」人は、放っておいても人から尊敬されたり

慕われたりしますが、「偉くない」人は放っておいたら、放

ったらかしにされるので、必死になって周りの関心を買い、

周りに “ひとかどの人物” だと思わせようと「エラそう」に

します。

 人から慕われたり、尊敬されたりする資質を持たない人

が、それを求めるのですから、嫌がられて当然です。

 むしろ本当に「偉い」人は、偉ければ偉い程、エラそうに

はしません。


 「偉い」人は、自分以外の人や存在に対して、その価値を

認め、尊重するゆえに「偉い」のです。

 人を尊重するから、人に慕われるのだし、人の価値を認め

るから、人と共に大きなことを成し遂げられる。

 力尽くで人を動かして、大きな事業を成功させても、その

様な成果は時代の移り変わりと共に、消えて行くでしょう。


 それにしても、何だって「エラそう」にして “ひとかどの

人物” に見せたいのでしょう?

 「支配欲」が強いとかいうことも有るのかも知れません

が、そういった人間のアタマの中は、常に “評価” すること

に支配されているのでしょう。そして、何よりも自分の評価

が下がることを怖れている。

 「エラそう」にすることで、「自分は強い立場にある」と

自己催眠をかけ、同時に周りの人間を威嚇して、自分に対す

る評価を封殺する。そこまでするのは、自分に自信が無いか

らでしょうね。でも、何故そんなに自信が無いのでしょう

ね? 子供の頃に、親から否定的に扱われて育ったりしたの

でしょうか?


 そんなことも有りそうですが、ケースバイケース。人それ

ぞれの事情が有るのでしょう。はた迷惑ですが、憐れで気の

毒なことです。

 その場しのぎの優越感を得る為に、孤立し、陰口を叩か

れ、人間としての本質的な喜びを知らぬまま、死んで行くの

でしょう。

 当人はそれで満足で、「大きなお世話」なのかも知れませ

ん(満足するようには思えませんが)。でも、“その満足” 

は、もっと深い “満足” を知らないだけでしょう。

 そういう人には、「ち・が・う・だ・ろ ー!」と言って

あげたいですね。

 綺麗ごとを言うのは気が引けますが、「人と気持ちが通じ

る」「思いを同じくする」というのは、やはり人間にとって

大きな幸せに違いない。



 私も、「偉い人に成りたい」と思いますが、私の成りたい

 “偉い人” は、「“偉い” って、何のこと?」という意識レベ

ルにある人の事なので、成れはしないんですが、「エラそう

にしない」という事は、常に心掛けていたいなぁと思ってい

ます。

 「エラそうにしない」様にすると、相手の事がよく見える

んですよね。



 「エラそうにする」為には、自分を大きく見せようと、自

分のエゴを膨らませて相手との間に置きますから、相手の事

なんか見えないんですね。

 「エラそうにしない」ことで、自分の持ってる偏見(エ

ゴ)が引っ込みますから、相手の事がかなりよく見える。人

間の事が分かって来る。

 社会的な立場が高いのに “エラそうじゃない人” には、気

を付けないと何もかも見透かされてしまいます。そういう人

は、もの凄く “人を見る目” が有るでしょうから。



 “偉い人” というと、一般的に「社会的成功者」と「素晴

らしい人格者」がごちゃ混ぜになっているとおもうんですけ

ど、私は、その辺は分けて考えたいんですよね。

 “地位が高い人” “社会で成功した人” は「成功者」と、

 “人(や物)を尊重する人” を「偉い人」と。

 「人を尊重するがゆえに、社会的地位を得ることになっ

た」という人は、「偉い人」でいいけれど、「人を尊重せ

ず、多くの人を踏みにじる事で、社会的成功を得た」という

人を「偉い!」なんて言いたくない。 言いたくないでし

ょ?


 人を尊重し、敬意を払い、尚且つ行動力のある人が身近に

居たら、「ついて行きます!」ってなるじゃないですか。

 人を尊重せず、敬意も持たず、行動力だけはある人がリー

ダーシップを取ろうとしたら、「勝手にやれば・・」って思

いますよね。



 普通に誰もが使っている言葉の中に、「修正したいなぁ」

「もっと良く考えて使おうよ」と、思うものが沢山あるんで

す。

 人のエゴが持つ価値観と、人が本来持っている価値感が、

違うものなのに一つの言葉の中に一緒になってしまってい

る。そういう言葉がいっぱいあって、いつも苦々しく思うん

です。

 「なんで、そんな雑な言葉の使い方が出来るのかなぁ」

と、不思議なくらい。真逆のことを一つの言葉に乗っけてた

りしますから。

 たくわんとショートケーキを一緒に食べるみたいで、「お

まえ、それ美味いのかよ?」という思いを持ちます。


 そうですね・・・。

 次回は、その辺を少し整理してみようかな。




2017年10月15日日曜日

足りない物は「満足」だけ。


 選挙ですね。

 時々、政治家を突っ突いて「真面目にやれよ」「あんまり

ムチャをするなよ」と釘を刺すには必要ですが、日本におい

ては、もうそれ以上の意味は無いでしょうね。


 日本という国は、江戸時代には、もうかなり良く出来た社

会システムと国民に共通の理念が出来ていて、明治以降に西

洋文明を取り入れても、もとからある物に継ぎ足したり、少

しばかり変更を加えることで、国の本質を大きく変えずに発

展してきた。

 もう 400年あまりも、基本的な方針を変えずにやって来

たので  江戸時代の事を聞いても、左程変に思わないのが

その証拠  この国の在り方を、大きくいじる余地が無い。

 首相が毎年毎年変わっても、長く変わらなくても、世の中

がメチャクチャにならないのは、社会の形が、(日本的に)

ほぼ完成しているからだろうと思う。


 もちろん、すべてが良いわけじゃない。

 変えた方が良いと思う事もいろいろ有るし、外国との関わ

りの中では、やや大きな変更も必要だろう。

 しかし、社会の在り方がもう出来上がってしまっているの

で、根の深い事柄は政治でどうこう出来るものではないだろ

う。そこを変えたければ、国民全体の価値感に働きかけるし

かない。


 高度経済成長の時代、日本は大きく変わったが、それは戦

争で何も無くなったので好きな絵が描けた為で、本質的な事

が変わった訳じゃない  多少、欲の皮が厚くなったかも知

れないが。

 今の様に、《 足りない物は「満足」だけ 》という状況

になると、もう大きくいじることは出来ない。


 政治家やマスコミの言う事を聞いていると、批判される側

に対して「代案を出せ!」とよく言っているけれど、もう大

きく変えられないので、「ボタンの位置をずらす」といった

程度の違いしか示せない。だから批判する側の押しが弱くな

ってしまう。もし、大きな変更をぶち上げれば、「なにバカ

な事言ってんの?」とそこら中から石が飛んでくる事にな

る。

 結局、「誰がやっても同じ」になってしまう。

 安倍政権は長いけど、特に安倍さんが優れているわけでも

なかろう。特に印象は無い。

 福島原発事故の時の管さんみたいに、大きなスカタンをや

らかさなければ、「誰でもいい」とみんな思っているだろ

う。“政治オタク” 以外は。


 この前、橋本さん(近所の “橋本さん” では無い)がコメ

ントしてたけど、マニュフェストなんてあくまで「希望」で

しかないだろうし、政策なんて「だいたいこういう方向で、

考えてま~す」ぐらいでいいし、選挙の時の大きな公約が簡

単に実現してしまう様なら、それの方が怖い。


 私が政治家に求めるのは、「判り易く話すこと」、「真面

目さ」(どこまでホントかは知らないけど)、「ユーモアの

センス」。

 “あんまりムチャさえしなければ、面白い方がいい” と思

っている。


 こういうことを言うと「不謹慎だ!」という人も居ます

が、誰がやっても対して違いは無いと思うし、社会を本当に

動かしているのは、人々の「集合無意識」だと思うから。


 ここで言う「集合無意識」というのは、本当に意識に登っ

ていない “ムード” の様なものと、“「意識はしているけれ

ど小さい考え」が、いつの間にか大勢を占めていて、突然世

の中を動かしてしまう力を持つ” という場合がある。


 政治家や識者やマスコミが、頭で考えてひねり出すもので

はなくて、それらの人々が窓口になったりするだけのこと。

 ある人の政策が国民に支持されてそれが実現しても、その

人が政策を作る前に、それを作らせる “圧力” や “流れ” が

国民から出ているのです。

 政策がどれほど理に適い、有効性が高くても、その時の国

民の “気分” に合わなければ、支持されません。


 最近、「反知性主義」なんて言っているけど、そんなの当

たり前でしょ。一体、いつ、どの国で、知性に基づいた選挙

が行われ、知性に基づいた世論が力を得た?

 いつだって、民衆の大多数は気分で動くだけだし、政治家

は人気取りをせざるを得ない。人気取りが不要なら、「独

裁」なんだから。
 

 百点満点の政治なんて存在しない。どんなに良くても75

点ぐらいだろう。国民の共有出来る価値感の限界はそのぐら

いだと思うから。(人口が少なければ、もっと上がるでしょ

うがね)


 「良い政治」を期待するなら、個人個人が「良い人」にな

るしかないと思います。しかも、今の時代にあっては、全世

界の人が「良い人」になってもらわなければなりません。

 おあいにく様ですが。


 選挙は気休めですね。




2017年10月14日土曜日

期待に応えない!


 私は、他人に期待しない。

 もちろん、他人に頼み事をしたりはするが、その人に出来

て当然の事を頼むのは、別に「期待」という程の事ではない

し、その人がそこまで出来るかどうか判らない時は、「出来

ればいいな」ぐらいの事しか思っていない。

 なぜ期待しないかというと、私に《 “「他人に期待する」

権利” は無い》からです。

 それと同時に、他人が《こちらの期待に応える義務は無

い》からです。



 契約がある場合は違いますよ。そこには、義務が生じます

からね。

 プロ野球のピッチャーが、シーズン 20 勝を期待され、年

俸 5 億円の契約をしたら、期待に応えなくてはなりませ

ん。ですが、高校野球のピッチャーが甲子園で全勝すること

を期待されても、それに応える義務は無いし、周りに期待す

る権利も無い。

 例え、監督やメンバーが勝利を期待したとしても、それは

その人たちの勝手です。「勝てたら嬉しいね!」ぐらいなら

いいけれど、「お前ならやってくれると信じてる」みたいな

ことになって来ると、話は別です。

「なんの権利があって、そんなプレッシャーを掛ける? 」

 そう思って良いと思う。



 周りに適任だと評価されて選ばれた訳だから、当人はその

評価に見合ったピッチングをしようとするだろう。ただそれ

だけの事だし、皆の喜べる結果が出せたら、一緒に喜べばい

いだけの話。



 自分が喜びたい為に、他人に期待なんかしちゃいけない。

 自分の事は、自分で喜ばせてくれ。

 なぜ、他人に自分の喜びを託す?


 「私は他人に期待しない」と言いましたが、他人に物を頼

んだ時には、「期待する」のではなく、「様子を見ている」

だけですね。もし、その人がもっと高い目標に向かいたいと

いうのであれば、「どうぞ、やって下さい。応援しますよ」

という感じです。何を、何処まで目指すかは、その人の問題

であって、他人がとやかく言ったりする事じゃない。


 それは、仕事の関係でも同じです。

 取引き相手との契約に関しては別ですが、職場の中で仕事

を頼む時は、その人なら出来るだろうと考えて頼むもので

す。もし出来なかったら、「あぁ、出来なかったか。もう次

から頼めないな。」というだけです。

 「なぜ、できない!」と批判しても無意味です。出来ない

んだから。

 「少しレベルの低い仕事をしてもらって、スキルが上がる

様なら、また頼んでみよう」という判断をするだけのことで

す。

 あまりにも能力が低すぎて、仕事に支障が出るほどなら、

本人と相談ですね。

 「どうしよう?」

 「どうする?」

 って。

 本人も困ってるでしょうから。


 逆に、予想以上に仕事が出来る場合は、「凄いね!そんな

感じでやってくれたら、すごく助かる!」と言って、お互い

に喜べばいい。それだけのことです。


 仕事の場合は、そんな感じですが、これが夫婦・親子・恋

人同士なんかになると、「期待する」なんて、以てのほかで

す。

 親密度が桁違いですし、遠慮が無いですから、迂闊に期待

したりすると、相手にとっては “大きな圧力” に成りかねま

せん。

 「家事をもっとちゃんとして」

 「もっと稼いで、もう少し早く帰ってきて」

 「テストでいい点を取って」

 「お片づけをちゃんとして」

 「愛してると言って」

 「そろそろ結婚して」

 大なり小なり、いくらでも有りますが、期待なんてするも

んじゃない。

 いったい、何の権利が有って「期待」する?

 それぞれが、“自分の出来ること” を “出来るだけ” すれば

いいし、お互いの間に信頼や思いやりがあれば、自ずから相

手の希望に合わせようとするものです。


 そもそも「期待」って、なんですか?

 私は、《「期待」は「依存」に過ぎない 》と思います。

 自分のエゴの投影です。

 人を束縛する行為です。

 他人に自分のエゴを投影するなんて、傲慢です。
 

 うっかりすると、他人を利用します。

 「わたしを機嫌良くさせろ」というわけです。

 さらにうっかりすると、他人を裁きます。

 「ガッカリした・・」と。

 自分が投影したエゴが挫折させられるからです。


 「期待」という言葉は、「期待は良いこと」という文脈の

中で使われますが、私はとんでもない事だと思います。

 子供が親の期待のせいで、潰されたり歪められたりするの

は、程度の差はあれ、ごく普通です。

 夫婦や恋人同士の問題は、たぶん 100%「(その時点で

は)相手に無いものを期待する」事から、生まれます。
 

 少しばかりの希望は持ちつつ、あるがままの、なるがまま

のその人を見守って行く。

 人間関係は、そういうものである方がいい。
 

 肩の力を抜いて、自分を育み

 その姿を、お互いに見守り

 それぞれの成長を喜び合う
 

 それは、幸せな事だと思いませんか?


 「強く・高く・速く・大きく・多く・・」そんな事、他人

に求めて、何が面白い?

 やりたかったら、自分でやればいい。


 「人の成長を促す」

 そんな事を言う人もいるでしょう。

 大きなお世話でしょう?

 その人にとって何が「成長」か? そんな事誰に分かる?

 ほんとにその人の事を思っているなら、その人のあるがま

まを、“ただ見守る” ことと、 “求められたら手を貸す” こと

以外にすべき事は無い。


 人が、「期待」なんかしなくなったら、誰もが無用な重荷

から解放されて、世の中はゆったりと、穏やかに、今よりも

楽しくなるだろう。


 そして、他人からの期待が無くなれば、それに影響された

「自分自身に対する期待」も持たなくなり、人はごく自然な

成長をするだろう。


 わたしたちは、大昔から続く “おかしな癖” をいくつも伝

えて来た。

 「期待」もその一つ。


 変な癖は直して、のびのびと、すっきりと、気楽に成長し

たいものですが・・・。





 

2017年10月13日金曜日

『がんばれ!』?・・「ちょっと黙ってくれないか」 


 「がんばれ!」

 「がんばる!」

 「がんばろう!」



 阪神淡路大震災の後、一年程経った頃だったでしょうか。

 用があって、震災時に住んでいた神戸の灘区へ行きました。



 昼食を取ろうと思って、公園の中の仮設テントで営業して

いた “お好み焼き屋” に入りました。

 私が食べていると、先に居た常連客のおっちゃんと話して

いた店のおばちゃんが、こう言いましたました。

 「『がんばれ、がんばれ! 』言うて・・、これ以上、ど

ない “がんばれ” いうんや・・・」

 その声には、腹立たしさと悲しみが有りました・・・。



 震災の直後からマスコミを中心に、事あるごとに「がんば

れ!」という言葉が使われ、その頃には私も「がんばれ!」

という言葉を聞かされるのに、ウンザリし始めていました。


 当時、どうしたら良いのか分からないまま、誰もが無我夢

中で生活を立て直そうとし、各々「がんばろう!」と気を張

っていました。オリックス  当時は、「ブルーウェー

ブ」。まだ、イチローが居た  が『がんばろう!神戸』の

ワッペンを肩に活躍し、リーグ優勝を決めた事に市民は感激

し、「自分たちもがんばるぞ!」と思ったものだった。

 しかし、程なくして震災後のある種の興奮状態が落ち着い

て来ると、無理を続けて来た被災者や、行政の様々な担当者

たちに現実の厳しさが見えて来た。個人で出来る事の限界

や、復興事業の想像以上の困難さに直面し、多くの人が疲れ

を隠せなくなり始めた・・・。


 「がんばれ!」という言葉に悪気が無いのは分っても、精

一杯頑張って来た人々にとって、それはもう耳障りな言葉に

変質してしまっていた。


 お好み焼き屋のオバちゃんの言葉の通り、

 「・・これ以上、どない “がんばれ” いうんや・・・」と

大勢が思い、「これ以上 “がんばれ” 言わんといて欲しい

わ・・」と、いらだち始めていたのです。



 テレビや新聞は、相も変わらず「がんばれ!」と励まし、

街の中や広告の隅のあちらこちらに「がんばろう」の文字を

見かける。

 「ほんま、無神経やな・・・」

 私も、そんな苦々しさを覚え始めていた。



 「がんばれ」に代わる言葉は無いのか?

 被災している知人たちに掛ける言葉を、自分自身を励ます

言葉を、自分でも考えてみたけれど、思いつかない。日本語

には適当な言葉が無い。

 「ぼちぼちやろか!」と「がんばろう!」の中間ぐらいの

「応援してるで! けど、あんまり無理せんように」という

感じの、あっさり・すっきりした言葉は無いものか?

 あの頃抱いた思いが、まだくすぶっている・・。



 災害や事件があったりした時だけでなく、悩みを抱えてる

人には、未だに「がんばれ」という励ましが与えられる。

 鬱状態にある人などには、「がんばれ!」なんて最低の言

葉なのに、お気楽で優しい人が平気で使ったりする。そうい

うのを目にすると、居たたまれない気持ちになる。



 誰もが使える、「がんばれ」に代わる言葉。

 “勇気付け” と “ねぎらい” を兼ね合わせた、友愛の言葉は

無いのか?



 「どないかなるよ。」

 「どうにかなるよ。」

 というのは、個人にはけっこういい感じだけれど、マスコ

ミ向けじゃない。

 そもそも、マスコミに限らず公的な立場から、困難を抱え

ている人に対して、ねぎらいや励ましの言葉を掛けることに

問題があるのではないか? そういう言葉は、あくまでも個

人の間で使われるべきものではないのか? 


 「たいへん困難な状況であるとお察ししますが、どうか、

がんばって下さい。」

 と言って、災害の報道を締めくくったニュースキャスター

が、自宅に帰りエアコンの効いた高級マンションの部屋で、

シャワーを浴びてビールを飲む。

 シャワーを浴びて、ビールを飲むのはいい。

 高級マンションで休むのもいい。

 だが、災害に直面している人と、自身の境遇とのギャップ

を思えば、テレビの画面からコメントなんか言えるはずがな

い。

 それでもコメントするのが、テレビという物だろうが、や

はりコメント出来ないのが本当だろう。


 本当に困ってる人にシンパシーを感じてしまったら、「が

んばれ」なんて言えない。


 「けれども、他に言葉が無いと、あなたも言っているじゃ

ないか?」


 確かに、掛ける言葉が見つからない。

 見つからないのだから、黙るより他ない・・・。それで、

いいんじゃないか・・・。


 もしも、ニュースキャスターが災害の報道をした後に、

「わたし、この番組が終わったら、家へ帰って、風呂に入っ

て・・・、きっとビールを飲んだりすると思うんですが・・

・・・・」そう言って、絶句してしまったら・・・。観てい

る者は、何を思うだろうか?

 言えない事は、言わなくていい。言わない方がいい。

 言わなくていい事は、言わなくていい。言わない方がい

い。

 言葉が無いのなら、無いままでいい。

 実の無い言葉は、人を傷つける。


 神戸の地震の翌日、自宅のがれきの下から必要な物を取り

出そうとしているところへ、隣のお宅の娘さんがミニバイク

で通りかかった。

 「大丈夫だったんですね」と、私に声を掛けてくれたのだ

が、近所の人から、彼女のお兄さんとおばあさんは、建物の

下敷きになり亡くなったと聞いていた。

 「・・お兄さん、ダメやったんやってね・・・・」

 そう声を掛けると、彼女は微かに笑みを浮かべ、目にはみ

るみる涙が溢れて来た。

 私も泣きそうになりながら、何も言う事が出来ず、ただ彼

女の顔を見つめながら、何度も小さく頷いていた・・・。

 しばらくそうしていると、彼女は涙を拭い、「今から、安

置所に行くんです」と言って、ミニバイクにまたがった。

 私に出来たのは、「気を付けてね」と言って手を振る事だ

けだった・・・。


 何も言えるわけがない。

 言えることなんかない。

 励ますなんて出来ない。

 元気付ける言葉なんて、持ち合わせていない。

 何か言えば、ウソになる・・・。


 あの時の気持ち、あの時の彼女の顔を忘れない。忘れられ

ない。


 なんでもかんでも、言葉にすればいい訳じゃない。

 なんでもかんでも、言葉にしようとし過ぎる。


 「ちょっと、黙ってくれないか!」


 どうしようもないことがある。

 なにもしてあげられないことがある。

 自分で背負うしかないことがある。

 泣くしかないことがある。

 そんな時は・・・、泣くしかない・・・。


 「がんばれ!」って、言うな。

 「負けるな!」って、言うな。

 「泣かないで」って、言うな。


 分かったから、「ちょっと、黙ってくれないか・・・」
 

 言葉にするから、伝わらないこともあるんだ。

 言葉にしようとするから、分からなくなることも有るん

だ。

 言葉を使うから、傷付けることもあるんだ。


 だから、「ちょっと、黙ってみてくれないか・・・」




 生きてる事は、なんでもないことだけど、時には、生きて

る事はほんとうにやるせないから。

 でも、みんな生きていたいから・・・。