2021年5月14日金曜日

しあわせだなぁ



 昔々の話です、中学生のころにこんなことがあった。

 その日の午後に、私は母親とケンカをした。発端が何かは

覚えていないが、中学生の親子喧嘩なので、しょうもない理

由に決まっている。ともかくケンカをして、口を利く気にも

なれなかった私はひとりでテレビを見ていた。

 まもなくお笑い番組が始まって、私はケンカのことなど忘

れてゲラゲラ笑っていたのだけど、そこへ台所にいた母親が

やって来た。すると、いまのいままでゲラゲラと笑っていた

私は、母親とのいきさつを思い出して瞬時にムスッと黙り込

んだのだった。そして黙り込んだ自分自身に気が付いてこう

思った。

 「いまのいままで笑っていたのに、なぜ怒って黙ってみせ

るんだ?」

 そう思って、自分がお芝居をしているんだということに気

付いたのだった。


 「いま楽しいのに、行きがかり上、楽しさを中断して不愉

快になって見せるなんて、なんてバカらしいことをしている

んだろう・・・」


 そして私は、自分だけではなく、誰もが「こういう時は怒

るもの」「こういうときは喜ぶもの」というような社会の約

束事のお芝居をしているのだと気付いてしまって、そのまま

今に至っている。


 そんなこと気付かない方がしあわせだったかもしれないけ

れど、気付いてしまったものはしようがない。しようがない

で、気付いたままでしあわせでいられる道を求めてこれま

生きて来た。このブログは、その成れの果てといったとこ

ろ。


 世の中のお芝居に気付いた私にとって、世の中にはしあわ

せは無い。無いところに無いものさがしてもしようがないの

で、私は世の中の外にしあわせを探した。そしてしあわせは

在った。在るどころか、世の中の外にはしあわせしかなかっ

た。しあわせとは、この世界のことだった。自分のことだっ

た。


 世界はしあわせでできているのに、世の中というものがノ

イズやハレーションとなって、それがわからない。そのこと

を私はもう知っている。

 知っているけれど、ノイズやハレーションに困らされるの

はいまも変わりはしない。

 変わりはしないが、どれほどノイズやハレーションが酷か

ろうと「自分がしあわせである」ことを私は知っている。

 ノイズやハレーションがどれほど私を悩ませても、それは

一切、「私」という「しあわせ」を損なうことが無い。そし

て「あなた」を損なう事も無い。


 しあわせだなぁ。





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