2021年5月22日土曜日

生きている・生かされている・生きさせられている



 わたしたちが生きているという事について、今回、タイト

ルに挙げたように、三つの捉え方があるだろうと思う。


 生きている

 生かされている

 生きさせられている


 アタマにとっての捉え方は、「生きている」という事にな

るだろう。「自分の力で生きているのだ」と。

 そこに「アタマ(エゴ・自我)が全てではない」という意

識が入って来ると、「生かされている」ということになっ

て、「アタマ(エゴ)」はもう主導権が自分に無いことを認

め、放棄しているように見える・・・。だが、厳密にいうと

違う。そこにはまだ「生かされている」自分が居る。そこで

はまだ、相変わらず主体としての「アタマ(エゴ)」が主導

権を握っている。

 それが「生きさせられている」となると、まるでロボット

の様に完全に受動的に動いている様な存在になり、「アタマ

(エゴ)」は主導権を完全に放棄し、消え去ったかのように

も思えるのだが、そこにはやはり「生きさせられている」自

分がある。


 わたしたちの本質は、「生きている」のでも「生かされて

いる」のでも「生きさせられている」のでもなく、「・・・

いる」ということではないだろうか? 表現とするならば、

「・・・いる」よりも「在る」という言葉が適切だなのろう

と思う。けれども、「在る」という言葉でさえ、そこにはま

だ微妙に「アタマ(エゴ)」が影を落としているように感じ

る。なので、さらに表現を極めてみたい。
 

 わたしたちは「      」


 実のところ、これでもまだしっくりとはしていないのだけ

ど、言葉でこれ以上の表現は出来ないだろうと思う。


 空白の中に適切な言葉を入れて下さいというのではありま

せん。

 空白の中に “何か” を見て下さい。

 空白の中に “何か” を感じ取って下さい。

 空白を受け入れてみて下さい。

 そんな感じです。


 「生きる」という言葉が成立する為には、「生きていな

い」という概念が必要です。

 「在る」という意識が成立する為には、「無い」という意

識がまずなければなりません。

 けれど、実際のこの世界は、「生きる」と「生きない」、

「在る」と「無い」が溶け合っている、いわば「生(な

ま)」です。仏教では「一如(いちにょ)」と言ったりしま

すね。


 ラーマ クリシュナの「塩人形が海を調べに行った・・・」

という言葉が好きなんですが、「自分が世界に溶け去ってし

まって、世界と一つになる・・・」。


 そんなに “自分を消して” 何が面白いのか?

 そんな風に思われるかもしれませんね。でも、それは最高

の意識状態でしょう。

 そして、実は「痛快」なことでもあるんですよ。“自分が消

え去る痛み” が、そのまま何とも言えない気持ちよさでもあ

るんです。

 私はちょくちょく味わってます。もしかしたら勘違いの自

己暗示なのかもしれませんが、まぁ、それならそれでいいの

です。さしあたり他人に迷惑はかけていないようなので。

(あっ、こんなのを読んだ人ら「自分で生きている人」には

迷惑かもしれませんね)




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