2021年5月21日金曜日

お釈迦様に逢いに行く



 前回、なんとなく「不自讃毀他戒」の解説みたいなことを

書いてしまって、少し恐縮しているんですが、その流れで

「これも書いちゃおう」と思って、また仏教の言葉を一つ。


 「自未得度先度他」(じみとくどせんどた)という言葉で

す。


 「度」というのは「渡る」という意味で 、「自未得度先度

他」は「自分がまだ渡らぬ先に、他の者を渡す」ということ

です。自分はもう極楽に入ることができるけれど、先に他の

人を極楽に送る為にこの世にとどまるという在り方を表して

います。「菩薩行」とも言えますね。


 お釈迦様は極楽の入り口で、すべての衆生がやって来るの

を待っているそうですよ。そして、自分は一番最後に極楽に

入るそうです。

 「自分の幸福は確定したので、何も急ぐ必要はない。他の

人に先に幸福になってもらうことにしよう」ということです

ね。

 けれどもね、「自分の幸福は確定したので、急いで幸福に

なる必要はない」ということは、もうすでに幸福になってし

まっているのだということなんですよ。幸福というものは、

幸福になることが確定した時点で人を幸福にしてしまうもの

なんですね。

 「自分は必ず幸福になれる」と知ると、幸福が未来からあ

ふれ出して、今の自分も過去の自分も包み込んでしまう。時

空を越えて、世界に満ちてしまう。「幸福」とはそういうも

ののようです。そして、気が付く。

 「ああ、始めっから幸福だったんだ」と。


 お釈迦様は極楽の入り口までたどり着いたんですけど、実

は、極楽の入り口にたどり着くと、世界が反転するんです。

自分の前にあったはずの極楽が、自分のいるこの世界を包み

込むように裏返しになって、振り向くとこれまで居た世界が

極楽になっている・・・。

 お釈迦様が極楽の入り口にたどり着いたことで、この世界

が極楽になったのです。だから、悟りを開いた時お釈迦様は

こう言った。


 「我と大地有情と同時成道」~世界のすべてが、いつでも

幸福だ。


 お釈迦様は、この世界の端っこ、周縁のすべての場所にい

まも立っている。そして、そこへやって来た人に黙ってこう

言う。

 「振り返ってごらん」


 お釈迦様の視線にいざなわれて振り返ると、そこには無限

に「今」が広がっている。

 そこには「すべて」が在る。


 お釈迦様が立っているのは、人の世の周縁。

 人が意味付けした世界の、意味が尽きる所。

 アタマが生み出す、過去と未来と、あらゆるものの価値が

雲散霧消して、“本当” が姿を現す所。


 「自未得度先度他」は、自分が先に立たないこと。

 自分が先に手に入れようとはしないこと。

 自分がつかもうとしないこと。

 そして、つかまえられるものは無いのだと知ること。

 それに気付いた時。もう既にその中にいることを知らされ

る。

 「自未得度先度他」は、そのまま「自既得度共度他」だっ

たこと知る。

 すべてが救われているのだと。



 調子に乗って、気ままに書き進めてしまったけれど、なん

となく雰囲気は OK な気がする。私にとって、仏教とはそう

いうものなんですよ。







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