2021年5月16日日曜日

富士山、来たかい?



 「ふじさんきたかい」


 いきなり謎の言葉で始めましたが、「富士山、来たか

い?」ではありません。「不自讃毀他戒」と書きます。禅宗

の戒律の一つだそうですが、こんな言葉を知っているのは、

言うなればオタクです。「岩手県の一番北にある駅の名前」

を知っているようなもので、知っている方が変わっていると

いうような、知らなくてあたりまえのことです。

 そのオタクな言葉の意味は字面を見ていただければだいた

い分かると思いますが、「自分を褒めて他人をそしるな」

(“毀” は “名誉毀損" などと言う時の「こわす」という意味

ですね)ということなんですが、こういうことが “戒” となる

のは、常日頃、わたしたちがそうしていて、それが良くない

ことだと考えられたからですね。


 このブログを始めて間もない頃に書いたことがあります

が、私流に言うと《「自分は正しい、あいつはおかしい」人

が考えていることはそればっかり》ということです。ほとん

ど毎日、朝から晩まで、夢の中でも、生まれてから死ぬま

で、わたしたちはこれをやっている。そして心休まる暇が無

い。

 なので、心の安らぎを求めるものである仏教としては、そ

ういうことをやめましょうというわけです。


 私がこの「不自讃毀他戒」という言葉を知ったのは、余語

翠巌老師の “禅の十戒 -『禅戒鈔』講話” という本を読んだ

からですが、この本の中で余語老師は「戒というものは、“そ

れをするな” ということではない。そんなこと “できない” と

いうことだと受け止めなければ、仏教の世界はわからない」

と仰っています。普通に言われる “戒” の受け止め方とは全然

違います。


 例えば「不殺生戒」というのは、特に仏教に興味が無い人

にもよく知られた “戒” だと思いますが、これは「殺すなか

れ」ということではないということです。

 「“殺してはいけない” と言って精進料理を食べたりしてい

るけど、米だってニンジンだって生きているのだ。都合のい

いことを言うな」と余語老師は言われます。

 「不殺生」とは、「殺せない」ということだと余語老師は

言います。「不殺生戒」とは、「不殺生と、自分を戒めよ」

(殺せないのだと心得ていなさい)ということです。


 「蚊を “パチン” と叩けば、蚊は死ぬじゃないか」といった

ように思われるかもしれませんが、そこに在る「死」や「殺

す」という意識は、わたしたちのアタマが生物と無生物を分

けるから生まれるものです。“パチン” と叩かれて潰れる前の

蚊と、潰れた後の蚊の姿は確かに変わっていますが、その時

点ではその存在の総量は変わっていません。

 その蚊が地面に落ちると、やがて細菌に分解されたりして

無くなってしまうでしょうが、それは細菌という別の形に姿

を変えるということで、存在の総量は変わりません。わたし

たちは「壊して、無くす」ことなどできないのです。


 とはいえ、それまで存続していた “あるひとつの姿” を壊し

ているようには思えます。

 しかし、「諸行無常」という言葉が示すように、この世界

のあらゆるものは、一瞬たりとも同じままではいません。生

物も無生物も瞬間ごとに変化にさらされています。ダイヤモ

ンドが構造的に何の変化もしていなくても、その位置は宇宙

の中を高速で移動していますし、その内部も素粒子レベルで

は常に動き続けています。そして、わたしたちも変化し続け

ています。

 “パチン” と蚊を叩く動き、その手から自分の身体のあちこ

ちに伝わる衝撃、その衝撃が生む身体の中の微妙な変化。蚊

の姿を変えた動きが、同時に自分自身も変えている。わたし

たちは「自分」が「蚊」という ″他” を変えたように思ってし

まいますが、本当は「自分」も「蚊」も共々に、「世界」と

いうひとつの流れの中で、「その時、そのように動いた」と

いうだけです。共々に「世界の移り変わりの一つとしてその

ような姿を見せた」ということだけです。
 

 話は「不自讃毀他戒」に戻ります。


 「自讃毀他」は、“自分を守って、他を壊す” と捉えてい

いわけですが、“共々に変化している「自分」と「蚊」” は、

世界というものの在り方からすれば「ひとつ」のもので、そ

こには「自他」は無い。「自分を守って、他を壊すことはで

きない」ということです。私はそう受け取っています。


 こういう話をテロリストなんかに教えたら、「殺しても、

表面上のことだから、平気でどんどん殺していいのだ」と人

を殺しまくり、街を破壊しまくるかもしれません。ですが、

余語老師の仰ることが本当に分かったら「自」も「他」も

無くなって、ツッパリが取れてしまい、殺すことに意味を感

じなくなってしまって、穏やかになってしまいます。そのこ

とを余語老師は「そこが体験(理屈ではなく本質で感得する

こと)の尊いところ」だとも仰っています。


 “戒” は窮屈な規則のことではない。

 ましてや、自分の自己満足や、教団を権威付けするために

使うものでもない。 

 その本質は、「自分というものが有ると思い込んで、それ

を立てようとするから、生きていることが窮屈で苦しくな

り、他者も苦しめるのだ、と戒めよ」ということです。


 “戒” が本当に示すところは、「何の制約も無い、自分とい

う制約も無い」という完全な自由です。


 まぁ、世の中も人生もそれでは済みませんが、その世の中

や人生がそんなに大したことではなくなるのが、「体験の尊

いところ」です。







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