2021年5月30日日曜日

自分ごっこ



 だいぶん前にブログの中で “自分ごっこ” という言葉を使っ

(『なりゆきで・・・』2020/8)、「あっ、この言葉で

今度ブログを一つ書こう」と思ったのだけど、そのままにな

っていた。で、それを思い出したので、今回は “自分ごっこ” 

の話です。


 わたしたちは、各自それぞれに “自分” というものを二つ持

っている。

 一つは、わたしたちが普通に「自分」という時の “意識と

しての「自分」” 。

 もう一つが、生物である “身体としての「自分」” 。


 “身体としての「自分」” の方は、ケガをしたり病気になっ

たり、老化したりと変化をするけれど、臓器移植の際に適合

するドナーの臓器を移植しても、免疫抑制剤を使い続けなけ

ればならないということに象徴されるように、その根本には

他者とは違う確固たるものがある。


 かたや “意識としての「自分」” (自我)の方は、そもそも

環境によって形作られるもので、キリスト教徒として育つ

か、イスラム教徒として育つか、ヒンドゥー教徒として育つ

かとか、日本で育つか、フランスで育つかとかいったことで

基本的な意識構造ができる。そこには自分の身体の状態も関

わる。意識にとっては自分の身体も環境の一つだから。

 そして、その基本的な意識構造が、生きて行く間のさまざ

まな経験によって、また変わって行く。

 価値観を大きく揺さぶられるような体験をしたり、他者か

ら意図的なマインドコントロールを受けたり、脳や精神を病

んだりすると、“意識としての「自分」” は大きく変わる。

 人は確固たる “意識としての「自分」” を持ち続けることは

できない。

 “身体としての「自分」” とは違い、“意識としての「自

分」” は、環境によって作られ、環境によって変えられてし

まう、その場しのぎのもの。まぁ、その場しのぎが一生続い

たりはするので、確固としたものに見えたりもするけれど、

憶喪失なんか起こしたら、消えてしまうものです。


 普通は、その仮のものを「自分」だと思って、わたしたち

は生きている。

 そして、その「自分」を守り、成長させ、成功させようと

して悩んだり奮闘したりしている。けれど、それは “仮のも

の” です。

 その為の奮闘努力は “自分ごっこ” です。


 とはいえ、記憶喪失になっても「自分」という意識は残る

ので、その部分は環境によって作られたものではない。その

部分は本当に「自分」と言えるのではないか?

 「自分はなにものか?」といったことを探ろうとするな

ら、その部分を探ろうとすべきではないか? 


 社会との関わりの中には、本当の自分は見つからない。

 けれど、人は社会の中で「自分」を求め、「自分」を知っ

ているつもりになり、「自分」を完成させようとし続ける。

でも、それは “自分ごっこ” で終わる。


 記憶を無くしても「自分」という意識は無くならないのな

らば、“ごっこ” をしている「自分」を脇にどかせば、そこに

あるものこそが本当の「自分」だろう。生(なま)の「自

分」だろう。“身体としての「自分」” とダイレクトに繋がっ

ている「自分」だろう。そして、探さなくても、作らなくて

も、元から在る「自分」だろう。


 “ごっこ” はする必要がないが、どうしたってせざるを得な

い。なので、それが “ごっこ” であることに気付いていたい。

それが “ごっこ” ではなく、「自分」をすることになるだろ

う。


 でも、アニー サリバンに会う前のヘレン ケラーのように、

言葉も使わず、文化にも触れずに育てられたら、人は「自

分」という意識を持つのだろうか? そこには「自分」という

ものは一切無いように思うが・・・。それは、またの機会に

考えてみることにする。




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